彼方の夢の間(1)
 もう50年もの前の話になります、高校から大学を卒業し就職するまでの間には思えば沢山の出会いと出来事がありました。思い出すことは楽しかった事ばかりで、失敗や悩み、悔やんだりした事も有ったはずなのに、今はもう出てはこない夢の間です。
 この中にいる皆にはまだ見ぬ未来があります、そして此方にはその未来が来ています。
 皆は如何しているのでしょうか、会えたら写真の中の君は消えてしまいますか。
1977年11月 明治大学生田祭(神奈川県川崎市多摩区生田)
 77年(昭和52年)3月に1年遅れで卒業し、11月の秋の生田にやってきました。
 生田祭に模擬店を出すようになったのは私が2年の時からです。同好会には2年になって入りました、バスケットボールをするのも始めてです。入学しても大学生活に溶け込めず、面白くもない毎日が続くなかで授業にも欠席しがちでした。

 如何にかして変わらないといけない、高校の時のように仲間を作ろうと、バスケットボール同好会に入っていた同級生を辿って仲間入りしました。

 生田バスケットボール同好会は、まだ出来て3年目だったと聞きました、当時の4年生と3年生が滝沢先生に部長になってもらい創(会)部したそうです。学生食堂の裏の部室はボディービル同好会と隣り合っていて汗臭かった。

 学ぶことが大学の本来の目的ですが、まずは毎日大学へ行こうと動き始めました。
4号校舎前に出店した模擬店に集まった生田バスケットボール同好会のOB達          模擬店横で集合
1975年ごろの生田校舎

 奥に写る建物は第二校舎4号館と5号館(工学部)
 左端の木造建物屋根の上に写る土のグランドが、練習をしていた屋外のバスケットボールコートで現在はテニスコートになっています。
1976年4月 農業土木試験場(神奈川県平塚市)
 私は就職が出来ずこの年留年し、水理学を教えに来て頂いていた先生が所属している平塚市東八幡にある農林省の試験機関「農業土木試験場」の水工部施設水理第一研究室に1年間お世話になることになりました。
 研究室での水理実験の助手をしながら卒論も書かせて貰らいましたので研究生みたいなものですが、アルバイトにもなりました。

 試験場は東八幡にありました。

 相模川の右岸にあり敷地の東側がすぐ河川敷になっていました。
 大学に入ってから、初めてと言って良いくらい勉強をしました。
 私がいた研究室は2階にあり、1階の研究室には東京農大生が2人が(私と違い留年はしていません)勉強に来ていました。

 他の研究室にも東海大の学生とかが何人かいて、けっこう彼方此方に来ていたのでした。

 研究室の研究員の方達がよく勉強していました。しばらくその勉強会にも参加していましたが、難しすぎて付いて行けず、そのうち1人で就職試験のための勉強をするようになりました。(後で、公務員試験に合格した時、研究員で残らないかなどの話もでましたが、レベルの違いが分かっていましたので行政職にしました。

 夜は、試験場の中に3畳ぐらいの小屋があり、そこに布団を持ち込んで寝泊りしました。

 試験場には全国から研修に来ていて、長い人は半年もいたので、何時も研修生が居ましたから、その食堂を朝晩利用させてもらっていました。私達学生は暗黙の了解なのか、それでも研修生から胡散臭い目で見られることがあったりしました。

 ある時、場内のレクレーションでバレーボール大会があり参加していたら、後で、職員では無いので参加しているのはおかしいのではなどと言う異論があったと聞きました。

 私は、家からそのころ乗っていた三菱ミニカで、日曜日の夜に来て土曜日に家に帰るという生活をしました。
1976年 春 静岡県伊豆市土肥温泉(合宿)
 私ともう一人の4年生は、卒業式も近い春に合宿に参加しました。私は留年でしたが、もう一人の方は、 大阪の方の建築会社に就職が決まっていました。
 何れ、出身地の九州で独立する予定だと聞いていましたが、建築士を取る為の経験を得るような話でした。
宿舎の旅館前の海岸                    合宿も終わりました
1975年12月
 1973年中東戦争の影響によるオイルショックで不況に陥り、今ほどで無いにしろ74年には内定取り消しや自宅待機が起き、75年も内定取り消しが続出するなど就職難の年が続いていました。
 真面目に大学生活を過してきた者ではそれでも就職が決まっていったが、私は試験を受けてもなかなか決まらず、就職課に来ていた就職先に大阪の会社があったので、関西でも良いかと応募することにして会社に連絡してもらいました。

 しかし、そう決めてから相手(会社)をよく調べていなかったこともあり、少しずつ不安になり、落ち着いて考えたら、慌てて決めることも無い、1年辛抱すれば風向きも変るかもしれないと思うようになってきたのでした。

 結局、就職課に応募を取り消すため謝りに行ったら、担当者には、「来年から依頼が来なくなったら如何するんだ等々」と散々怒られ、自分のいい加減さ、考えのなさを思い知りました。

 今みたいに会社説明会があるのでは無く、就職カード(求人票)を見てその会社へ聞きに行ったり、卒業生や研究室の先生の紹介で試験を受けたりして就職先を探すのですが、 オイルショックが起きても青田買いはあり、優秀な学生ほど早く決まっていました。
1975年11 生田祭
同好会が出店した模擬店の横        
 1年生から4年生までの顔が見えます。
 後から聞いた話だと、私を入れて1年上の先輩から、2年後の後輩までに、必ず5年間勉強した者がいたそうです、余程学校が好きだったのかも知れません
1975年 夏 長野県茅野市(樽ヶ沢山荘での合宿)
 樽ヶ沢山荘は白樺湖(写真)からバスで10分ぐらいの所にあります。体育館があってバスケの合宿が出来ました。ここは2回目で2年生の時にも合宿をしに来ました。
 登り下りはありますが、白樺湖まで山荘から2〜3kmだったのでしょうか、練習を兼ねて走って来てました。

(左)白樺湖 (右)マネージャー
 マネージャーは生田校舎にいる大学職員で前年に4年生がスカウトしてきました。

 競技レベルは、インターハイに出場した人もいるが、私のように高校までの部活で経験がない人いて、同好会の域を超えるものではありませんでした。
 私たちの時に関東理工系リーグ(2部か3部)に入って東京近辺の大学と試合をしてました。

(左)OBたちが来てくれました。
(中)後ろには体育館
(右)日陰でちょっと休憩
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